裁判員制度が始まります

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本日は名古屋で朝を迎えました。
名古屋地裁で提訴して全面勝訴した事件について、本日名古屋高裁で第一回期日(控訴審)がありましたもので。
たまに出張できると、新鮮で良いですね。
名古屋の満喫の仕方はまだ良く分かっていない感じですが。
そう、本日起訴された刑事事件から、裁判員裁判へ配点される事件が出てくるのです。
裁判員裁判担当者に登録していないものの、来週が被疑者国選の担当週なので、いやおうなしに裁判員裁判に当たる可能性はありますね。
ちょっとドキドキです。
弁護士の目線からすると、裁判員裁判って、
(1)量刑が非常に読みづらい(極端な話、情報番組の報道の仕方次第で事実上量刑が決まってしまうのでは?)
(2)でも、今までよりは無罪率が上がりそう
という、一長一短ありな制度かな?というイメージではないかと思います。
たまたま名古屋にいたせいか、先日判決のあったいわゆる闇サイト殺人事件(闇サイトで知り合った3人の男性が、名古屋在住の女性から現金などを奪って殺害した事件)のことが頭に浮かびました。
あれって、主犯格ではないかと言われた人が、自首の効果あってか無期懲役で、
その他の2人が、死刑だったんですよね。
何か釈然としない感もありますけど、これ、たぶん裁判員裁判であっても同じような結論だったのではないかな?という気がします。
というのは、本件は自首がなければ、おそらく全容解明は不可能に近かった(=迷宮入りの可能性大だった)わけで、やはり自首の点を量刑で考慮せざるを得ない気がするんですよね。
難しいところなんですが。
死刑を下すには、やはり一定の基準(俗に言う永山基準など)を満たしている必要があって、自首した人とそうでなかった人を同じ量刑で罰するのは、やはり公平を欠いてしまう可能性が高いように思います。
同種事案について過去に下された判例の集積から出てくるある程度の目安のことを、俗に「量刑相場」などと読んだりしますが、こう読むと、まるっきり悪いイメージですよね。
商品先物取引とかバナナのたたき売りとかやってるわけじゃないんですから。
「相場」という言い方が雑なのであって、「過去の先例」とか言い方を変えれば、もう少しイメージが違うかな?
死刑の運用には、やっぱり一定の基準がなければいけませんよね。
裁判員の気分次第で量刑が決まるような制度になってはいけません。
裁判員は勿論、裁判官も、あくまで人間であって、神ではないのです。
人が人を裁くという重大なことが、無秩序になってはいけません。
ではまた。