取材源の秘匿

Blog

本日はずいぶん日の落ちるのが早く感じました。
長い夏が終わったと思ったら、あっという間に秋を通り越して冬になってしまいそうな勢いです。
もう少し秋を堪能したいものですが。
さてさて、本日の気になった記事です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
田原総一朗氏、取材テープ提出命令に即時抗告
読売新聞 10月26日(火)18時56分配信


 北朝鮮による拉致被害者の有本恵子さん(失踪(しっそう)当時23歳)の両親が、ジャーナリストの田原総一朗氏(76)にテレビ番組で「外務省も生きていないことはわかっている」と発言され、精神的苦痛を受けたとして慰謝料を求めた訴訟で、田原氏は26日、外務省幹部への取材テープの提出を命じた神戸地裁の決定を不服とし、大阪高裁に即時抗告した。
 田原氏は「取材源の秘匿を前提に口外しないことを約束したやり取りが録音されており、守秘義務を負っている。開示されれば、取材の自由に危機的な影響を与える」と主張している。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
このときの田原氏発言、本当にたまたまですが、生で見ていました。
昨年春だったかと思いますが。
個人的にはそれほど彼の語り口が好きではないし、(それが売りでもあるのでしょうが)声のでかい人ばかりが目立つ印象の番組なので、普段は殆ど見ていないのですが、この日はなぜかたまたま見ていました。
「え~~そんなこと言っちゃうわけこの人は???!!!」という印象でした。
拉致被害に遭われた方のご家族の方々のお気持ちを考えると、正直不愉快でした。
これ、絶対に後で問題になるなと思ったら、案の定でしたね。
18日付の文書提出命令決定書によると、提出命令が出た対象は、田原氏が平成20年11月11日に外務省幹部に取材したとされる録音テープだそうです。
長井浩一裁判長は「被告が今回の訴訟でテープを引用した以上、秘密保持の利益は破棄したと理解される」と指摘し、「被告が守秘義務を負う場合には当たらない。テープの証拠調べが必要」と判断したそうです。
まあ、裁判官の判断は非常に妥当な判断だと思います。
文書提出命令の対象には、当該文書を所持している当事者が裁判で当該文書を引用した場合の当該文書が含まれるのです。
いわゆる「引用文書」というものです。
田原氏の代理人弁護士、どのような方なのかは分かりませんが、テープを起こした文書の一部を裁判書面で引用したのでしょうね。
名誉毀損の成立を否定せんとするあまり必死だったのかなとも思いますが、取材源の秘匿を最優先に考えるのであれば、当該引用はやはりミスだったといわざるを得ないのでしょうね。
まあ、もともとは田原氏の発言が引き金ですから、代理人ばかりを責めるとしたらそれはお門違いだろうと思いますが。
取材源の秘匿は、表現の自由の実現保持には欠かすことの出来ない重要な利益です。
取材源の秘匿が守られないとすると、我々が日常入手できる情報は、現在以上に相当チープで浅いものに堕してしまう可能性があるわけです。
しかし、名誉毀損が問題になっているような事件で、当該文書が裁判書面で引用されてしまったような場合は、取材源の秘匿の利益も一定の制限を受けざるを得ないということです。
取材源の秘匿の重要性って、実は刑事事件の捜査にも一部当てはまるのでしょうね。
きっちりでかいネタをひろってくることのできる捜査官は、すなわち豊富な情報源をもつ人です。
情報源の中には、おそらく相当アングラな先も含まれます。
そういった、おいそれと一般に公開できないような情報源からは、一般人では接し得ない貴重な情報がとれることが多いものです。
名を明かす危険が少しでもあるとなったら、そういった情報源はほとんど活用できなくなってしまうでしょうね。
そういう意味では、取調べのビデオ録画等による全面可視化って、良いことばかりではない気がしますね。
若干ニュアンスは異なりますが、密室での情報取得を是とするか非とするかという意味では、同じ構造の問題ですから。
もちろん不当捜査を監視するという意味では、全面可視化は有効な手段なのでしょうが、逆に取調べを通り一遍のうすっぺらいものにしてしまい、刑事事件の捜査力の深刻な低下を招く危険もあると思います。
どうしたって、録音や録画が働いているとなれば、本当の意味での深い捜査、すなわち人間力での真剣勝負はできなくなるような気がします。
司法修習で経験した程度ですが、被疑者の取調べって、最終的には捜査官と被疑者との人間力・胆力勝負なんだと思います。
また、全面可視化がなされると、悪知恵の働くヤツであればあるほど、録音や録画があることを盾に徹底的にシラを切ってくるようになる気がします。
そうなれば、結局悪を取り逃がすことにつながりかねませんし、それは結局日本国民にとって大きな損害です。
一度緩めたタガをまた厳しく締めるのって、かえって大変なんですよね。
あの悪名高き「ゆとり教育」がいい例です。
一度下がった日本人の世界的偏差値をもう一度上げるには、少なくとも数十年を要してしまうわけです。
もしかしたら上がらないかもしれません。
なんて巨額の損失でしょうか。
目がくらみそうです。
検察不祥事の波に乗って、取調べの全面可視化を拙速に取り入れると、かえってあとで高いツケを払うことになる気がします。
先人によって長きに渡って積み上げられてきたものも確かにあるわけで、それらの価値を声高に100%否定することばかりがよいこととは思いません。
今の日本に足りないものは、社会にせよ教育にせよ、本当の意味での厳しさであるように思います。
ではまた。